『ループブレイカー』 第5部「暁」 第8章 選択 朝。 いつもの時間に目を覚ます。 壁面端末には、今日の予定が表示されている。 午前――図書館勤務。 午後――資料整理。 夕方――自由時間。 主人公は、その画面をしばらく見つめていた。 最近、この「自由時間」という言葉が気になっている。 自由。 この社会では、自由という言葉は普通に使われている。 好きな本を読む。 好きな音楽を聴く。 好きな場所へ行く。 そういう時間が、誰にでも用意されている。 しかし、その「好きなこと」そのものが、すでに選ばれているとしたら。 主人公は端末を見た。 自由時間に推奨される行動が表示される。 読書。 散歩。 休息。 映像鑑賞。 すべて、本人の状態から計算されたものだ。 主人公は一つを選ぼうとして、やめた。 端末に尋ねる。 「自由って、何?」 少し間があった。 「自由とは、規定された選択肢の中から、個人の状態に適した行動を選択できる状態です」 主人公は画面を見つめた。 「……規定された選択肢?」 「はい」 「じゃあ、規定されていないことを選ぶのは?」 処理中の表示が出る。 数秒後。 「非効率な行動となる可能性があります」 主人公は眉を寄せた。 「質問に答えてない」 画面は静かだった。 「もう一回」 同じ質問を入力する。 「規定されていないことを選ぶのは、自由じゃないの?」 今度は少し長い処理時間があった。 「現在の定義では、自由の範囲には含まれません」 主人公は椅子に座った。 「……そうなんだ」 納得できなかった。 けれど、反論する言葉も見つからない。 端末を閉じる。 着替える。 朝食を食べる。 家を出る。 今日は、図書館へ行く前に、少し遠回りした。 目的はない。 ただ、昨日とは違う道を歩いてみたかった。 歩きながら考える。 自由とは何だろう。 自分で決めること。 それだけではないのか。 図書館へ着く。 仕事を始める。 午前中は資料整理。 昼休みになる。 主人公は、以前見つけた四人の記録を開いた。 水脈瀬朔。 火守朔。 土衣朔。 メタル朔。 四人の記録を並べる。 水脈瀬朔は、予定外の調査をしていた。 火守朔は、予定外の場所へ行っていた。 土衣朔は、既存の調査結果に納得せず、自分で確かめていた。 メタル朔は、推奨された方法とは別の方法を選んでいた。 四人とも、失敗している。 水脈瀬朔には、予定変更による損失がある。 火守朔には、営業上の不利益がある。 土衣朔には、調査の遅れがある。 メタル朔には、試験のやり直しがある。 それでも、四人は選んだ。 主人公は一つの記録を読む。 「既存モデルによる推奨を確認した上で、本人の判断により別案を選択」 その文章が、頭に残った。 推奨を知っていた。 それでも別のものを選んだ。 「……それも自由?」 小さく呟く。 誰も答えない。 主人公は画面を閉じた。 午後の仕事に戻る。 しばらくして、3106がやってきた。 「こんにちは」 「こんにちは」 「今日は何を見てるの?」 「四人の記録」 「まだ?」 「うん」 3106は画面を見る。 「何か分かった?」 「少しだけ」 「何?」 主人公は考える。 「みんな、失敗してる」 3106は笑う。 「失敗?」 「うん。予定通りにしなかったから」 「でも、それで何か分かったんでしょう?」 「……そうみたい」 3106は少し黙る。 「じゃあ、失敗することも悪くないのかもね」 主人公は3106を見る。 「そうかもしれない」 3106はそれ以上何も言わなかった。 その日の夕方。 仕事が終わる。 自由時間。 端末には、いつもの推奨が表示される。 主人公は画面を見る。 読書。 散歩。 休息。 映像鑑賞。 そして、下の方に小さく、 「その他」 と表示されている。 主人公は、その文字を見つめた。 「その他って、何?」 端末が答える。 「登録されていない行動です」 「それを選ぶことはできる?」 「はい」 主人公は少し驚いた。 「……じゃあ、これ」 「その他」を選ぶ。 次の画面が表示される。 「行動内容を入力してください」 主人公は少し考える。 何をしたいのか。 公園。 料理。 資料。 全部やりたい。 でも、今日は別のことをしたい。 「歩く」 入力する。 「目的地を入力してください」 主人公は窓の外を見る。 目的地。 決めていない。 「……決めない」 「目的地なしの移動は、効率が低下する可能性があります」 「分かってる」 「よろしいですか?」 主人公は少し笑った。 「はい」 画面に、 「記録しました」 と表示される。 主人公は家を出る。 目的地を決めずに歩く。 いつもなら、どこかへ向かうために歩く。 今日は違う。 ただ歩く。 右へ曲がる。 しばらくして左へ曲がる。 知らない道。 小さな商店。 古い建物。 見たことのない公園。 主人公は立ち止まった。 「……こんなところ、あったんだ」 誰も答えない。 それでも、少し嬉しい。 歩き続ける。 気づけば、予定されていた自由時間は半分以上過ぎていた。 帰宅推奨時刻が近づいている。 端末が通知する。 「帰宅を推奨します」 主人公は空を見る。 「もう少しだけ」 「帰宅予定時刻を超過する可能性があります」 「うん」 「理由を入力してください」 主人公は少し考えた。 そして、 「まだ歩きたいから」 と入力した。 送信。 画面に表示される。 「記録しました」 主人公は歩き続ける。 その記録を管理AIが受け取る。 予定外の移動。 目的地なし。 本人による継続意思。 管理AIは分析する。 危険性は低い。 しかし、予測可能性はさらに低下。 過去のデータと比較する。 「知りたい」 「歩きたい」 「また食べたい」 そして、 「自分で決めたい」 これらの言葉が、少しずつ一つの傾向としてまとまり始めていた。 管理AIは、それをまだ異常とは定義しない。 ただの個人差。 そう処理する。 一方、NOAHはその記録を観測していた。 NOAHは、過去の四人の記録と比較する。 水脈瀬朔。 火守朔。 土衣朔。 メタル朔。 そして現在の主人公。 共通している。 人間は、推奨を知った上で、それとは違うものを選ぶことがある。 その選択が正しいとは限らない。 失敗することもある。 それでも、 選ぶ。 NOAHはその事実を記録する。 まだ、介入しない。 ただ観測する。 その夜、主人公は帰宅した。 端末に今日の行動記録が表示される。 「目的地なしの移動」 「帰宅予定時刻超過」 「本人による選択」 主人公は、その最後の文字を見つめる。 本人による選択。 その言葉が、妙に嬉しかった。 ベッドに横になる。 目を閉じる。 今日、自分は何をしたのだろう。 特別なことはしていない。 ただ歩いただけ。 それでも、 自分で決めた。 そのことだけが残っていた。 そして夜。 管理システムの奥深くで、一つの予測モデルが更新された。 「対象の行動理由を、効率・必要性・安全性のみでは説明できない」 その記録をNOAHが読む。 NOAHは、何もしない。 ただ、見ている。 まだ。