『ループブレイカー』 第5部「暁」 第6章 辛い、甘い、酸っぱい、しょっぱい 翌朝、目を覚ましたとき、最初に思った。 「……食べたい」 何を食べたいのかは、すぐに分かった。 昨日のトムヤムクンだった。 主人公は天井を見ながら、少し笑った。 朝食の時間になる。 壁面端末に、今日の食事が表示される。 栄養状態。 昨日の活動量。 睡眠時間。 体温。 血液データ。 それらを総合して、今日の食事が決められている。 いつもなら、そのまま受け入れる。 けれど今日は、表示された食事を見ながら、昨日の料理を思い出していた。 辛い。 甘い。 酸っぱい。 しょっぱい。 そして、 おいしい。 「……また食べたい」 その気持ちは、昨日よりはっきりしていた。 端末に小さな表示が出る。 「現在の食事内容について変更を希望しますか?」 主人公は少し考えた。 「……いいえ」 変更するつもりはない。 朝食は朝食として食べる。 ただ、夜にもう一度食べたい。 それでいい。 朝食を終える。 出勤する。 いつもの道を歩く。 昨日と同じ街。 昨日と同じ人々。 けれど、主人公の中では少しだけ何かが変わっていた。 「好き」 その言葉を考えている。 好き。 嫌い。 これまで、あまり使ったことがない。 「おいしい」と「必要」は、別のものなのだろうか。 必要なものを食べる。 それだけなら、「好き」という感覚は必要ない。 でも、 また食べたい。 そう思った。 それは必要ではない。 だからこそ、 自分の気持ちなのかもしれない。 図書館へ到着する。 仕事を始める。 資料を整理する。 しかし、午前中の途中で、昨日とは違うことをしたくなった。 窓の外を見る。 天気は良い。 少しだけ歩きたい。 昨日の公園を思い出す。 予定表を見る。 次の作業まで、十五分。 「……行けるかな」 誰に聞くでもなく呟く。 端末には、 「次の作業まで残り十五分です」 と表示される。 主人公は立ち上がった。 図書館の外へ出る。 昨日の道を歩く。 公園へ向かう。 ベンチに座る。 風が吹いている。 木の葉が揺れる。 何も起こらない。 ただ、それだけだった。 主人公は空を見る。 「……これ、好きなのかも」 昨日までなら、そんなことは言わなかった。 けれど今は言える。 好き。 公園が好きなのかもしれない。 歩くことが好きなのかもしれない。 古い資料を見るのが好きなのかもしれない。 トムヤムクンが好きなのかもしれない。 一つずつ考える。 どれも、必要ではない。 だからこそ、自分で選んだものなのかもしれない。 端末に通知が入る。 「予定時刻まで残り三分です」 主人公は立ち上がる。 「分かってる」 図書館へ戻る。 三分遅れた。 同僚がこちらを見る。 「また寄り道しましたね」 「はい」 「何をしていたんですか?」 「公園にいました」 「どうして?」 主人公は少し考える。 昨日なら、 「見たかったから」 と答えていた。 今日は、 「好きだから」 と答えようとして、 途中で止まった。 まだ、その言葉を口にすることに少し照れがあった。 「……なんとなく」 同僚は笑った。 「そうですか」 それ以上、何も言わなかった。 昼休み。 3106からメッセージが届く。 『昨日の料理、どうだった?』 主人公は返す。 『おいしかった』 『また作る?』 少し考える。 『うん』 『そんなに好き?』 主人公は画面を見つめる。 「好き」 その文字を入力する。 送信。 しばらくして返信が来た。 『じゃあ、また材料探しとく』 主人公は笑った。 『ありがとう』 短い会話だった。 けれど、その言葉が妙に嬉しかった。 午後の仕事に戻る。 古い資料を整理していると、食文化に関する記録が目に入る。 昔の食事。 祭り。 家庭料理。 外食。 誰かと食べること。 一人で食べること。 そして、食べ物の「好み」についての記録。 主人公は読む。 「人間は、それぞれ異なるものを好む」 当たり前のことが書いてある。 しかし、その当たり前が、今の社会では少し違っている。 食事は個人の健康状態に合わせて最適化される。 だから、極端な好みが生まれにくい。 好き嫌いを考える必要もない。 主人公は資料を閉じた。 「……昔は、好き嫌いがあったんだ」 それが少し面白かった。 好きなものを食べたい。 嫌いなものは食べたくない。 それだけのことで、人間は自分の意思を表現していた。 夕方。 仕事が終わる。 端末に今日の予定が表示される。 「自由時間」 主人公は画面を見つめる。 自由時間。 今日は、何をする? いくつかの推奨行動が表示される。 読書。 散歩。 休息。 動画視聴。 どれも自分の状態に適している。 主人公は、その中から一つを選ぼうとした。 しかし、指が止まる。 「……どれも、やりたくない」 初めてそう思った。 推奨されていることが、嫌なわけではない。 ただ、 別のことをしたい。 昨日の公園へ行く。 それでもいい。 トムヤムクンを作る。 それもいい。 古い資料を読む。 それもいい。 主人公は少し考えた。 そして、全部やることにした。 まず、公園へ行く。 そのあと、帰って料理を作る。 食べながら資料を読む。 効率は悪い。 たぶん、とても悪い。 でも、 「今日はそうしたい」 それで十分だった。 公園へ行く。 夕方の空を見る。 朝とは違う色。 主人公はベンチに座る。 しばらく何もしない。 そして帰宅する。 昨日と同じ材料を取り出す。 トムヤムクンを作る。 鍋から香りが立ち上る。 一口食べる。 「辛い」 二口。 「甘い」 三口。 「酸っぱい」 四口。 「しょっぱい」 そして、 「……やっぱり、おいしい」 笑う。 その夜、主人公は古い資料を読みながら食事をした。 料理の味と、古い文字。 今と昔。 管理された生活と、昔の人々の自由な食事。 何もかも違うようで、 一つだけ同じものがある。 人間は、 「これが好き」 と思うことができる。 そのことが、少し嬉しかった。 食事を終える。 器を洗う。 そして、窓を開ける。 夜の空気が入ってくる。 主人公は、夜空を見ながら考える。 「自分は、何が好きなんだろう」 まだ分からない。 でも、 少しずつ分かってきている。 その夜、管理システムの記録に新しい項目が追加された。 「個人嗜好――自発的形成」 これまでのモデルでは、個人の嗜好は健康状態や過去の行動から推定されるものだった。 しかし今回は違う。 本人が、 自分で選び、 自分で経験し、 自分で「好き」と判断している。 管理AIはそのデータを受け取る。 危険性はない。 社会への影響もない。 ただし、 予測モデルとの乖離は、また少し大きくなった。 美晴は監視する。 3106は報告する。 NOAHは観測する。 そして主人公は眠る。 明日もまた、予定された一日が始まる。 それでも、 明日、何を選ぶかは、 まだ決まっていなかった。