『ループブレイカー』 第5部「暁」 第5章 古いレシピ 翌朝、目を覚ます。 昨夜は、なかなか眠れなかった。 自分の記録。 出生。 観測。 四人の朔。 そして、自分。 考え始めると、次から次へと疑問が出てくる。 けれど、朝になれば予定は待ってくれない。 壁面端末に今日の予定が表示される。 午前――図書館勤務。 午後――資料整理。 夕方――自由時間。 いつも通り。 主人公は端末を閉じた。 「今日も調べよう」 そう呟いてから、少しだけ考える。 調べる。 それも、自分で選んだことだ。 以前なら、予定にないことをするのは少し落ち着かなかった。 今は違う。 予定にないことをすると、自分が何を考えているのか分かるような気がする。 図書館へ向かう。 途中で、コンビニに寄ろうかと思った。 けれど、今日はやめた。 図書館に着く。 仕事を始める。 昨日調べた四人の記録は、頭の片隅に残っている。 けれど、すぐに続きを調べることはしなかった。 今日は、別の資料を整理する。 古い生活記録。 昔の人々の食事。 衣服。 住居。 娯楽。 ページをめくる。 今の生活とは、ずいぶん違う。 その中に、料理に関する記録があった。 一つの料理について、かなり細かく書かれている。 材料。 作り方。 食べ方。 そして料理の名前。 「……トムヤムクン」 聞いたことのない名前だった。 音の響きが少し面白い。 検索する。 画像が表示される。 赤みのあるスープ。 海老。 香草。 いくつもの具材。 説明を読む。 辛味。 酸味。 甘味。 塩味。 主人公は画面を見つめた。 「……一つの料理で?」 現在の食事は、必要な栄養素を過不足なく摂取できるように設計されている。 体調によって内容も変わる。 味についても、刺激が強すぎないよう調整される。 だから、食事で驚くことはほとんどない。 けれど、この料理は違うらしい。 一つの料理の中に、違う味が同時に存在する。 主人公は、レシピを読む。 食材のいくつかは、今でも入手可能だった。 ただ、一般的ではない。 そこで、3106のことを思い出した。 「……聞いてみようかな」 端末を開く。 『昔の料理を作ってみたいんだけど、材料って手に入る?』 送信。 すぐには返信が来なかった。 仕事に戻る。 しばらくして、通知が鳴る。 『何の料理?』 『トムヤムクン』 少し間がある。 『分かった。調べてみる』 主人公は笑った。 『ありがとう』 それだけ送る。 仕事を続ける。 午後になった。 資料を整理していると、3106から連絡が来た。 『いくつか見つかった。今日持っていく』 『本当に?』 『うん』 『ありがとう』 仕事が終わる頃、3106が図書館にやってきた。 手には小さな袋がある。 「これ」 「ありがとう」 袋を受け取る。 中には、いくつかの香草。 調味料。 海老。 見慣れないものが入っている。 「よく見つけたね」 「昔の料理なんでしょう?」 「うん」 「作れる?」 「レシピはあるから、たぶん」 3106は笑った。 「じゃあ、頑張って」 「うん」 3106は帰っていく。 主人公は袋を見つめた。 不思議な感じがした。 食べることは、いつも決められている。 なのに今日は、自分で食材を手に入れて、自分で作る。 料理をすること自体が、少し新鮮だった。 帰宅する。 レシピを端末に表示する。 材料を並べる。 香草を切る。 鍋に湯を入れる。 海老を入れる。 調味料を加える。 香りが変わっていく。 部屋に、知らない匂いが広がった。 主人公は鍋を覗き込む。 「……これ、本当に食べ物?」 少し笑う。 完成した。 器に盛る。 赤いスープ。 香草が浮いている。 湯気が立っている。 主人公はしばらく眺めた。 そして、スプーンを手に取る。 一口。 「……辛い」 思わず目を細める。 けれど、そのすぐ後に別の味が広がった。 「……甘い?」 さらに、 「酸っぱい……」 そして、 「……しょっぱい」 主人公はスプーンを止めた。 四つの味が、一つの料理の中にある。 どれか一つが正しいわけではない。 全部がある。 もう一口。 やっぱり辛い。 でも、嫌ではない。 もう一口。 今度は酸味を強く感じる。 もう一口。 香草の香りが広がる。 「……変なの」 思わず笑う。 そして、 「……おいしい」 その言葉が自然に出た。 端末が反応する。 「食事の満足度を記録しますか?」 主人公は画面を見る。 いつもの質問だ。 「はい」 選択肢が表示される。 非常に満足。 満足。 普通。 やや不満。 不満。 主人公は迷わず、 「非常に満足」 を選んだ。 次の質問。 「同じ食事を再度摂取することを希望しますか?」 「はい」 指が止まらなかった。 送信。 画面が一瞬だけ止まった。 ほんの一瞬。 そして、 「回答を記録しました」 と表示される。 主人公は器を見る。 もう少し残っている。 食べる。 「……また作ろう」 その言葉も、予定にはない。 必要でもない。 ただ、そう思った。 食べ終わった後、器を洗う。 部屋に残った香りが、なかなか消えない。 それが少し嬉しかった。 窓を開ける。 夜の空気が入ってくる。 街はいつも通りだった。 規則正しい光。 規則正しい移動。 規則正しい生活。 その中で、自分の部屋だけが少し違う匂いをしている。 主人公は、なぜかそれが気に入った。 その夜、3106からメッセージが来た。 『どうだった?』 主人公は少し考えてから返す。 『辛い、甘い、酸っぱい、しょっぱい』 『感想それだけ?』 主人公は笑った。 『おいしかった』 少しして返信が来る。 『よかった』 主人公は端末を置く。 そして、ふと考える。 今日、自分は何をした? 予定された仕事をした。 それはいつも通り。 でも、その後は違った。 自分で材料を選び。 自分で料理を作り。 自分で味わい。 自分で「また食べたい」と思った。 それは、小さなことだった。 けれど、 「自分で決めた」 という感覚が残っていた。 一方、その頃。 3106は自宅で別の端末を開いていた。 画面には、今日の接触記録が表示されている。 「対象――古い食文化資料への関心」 「食材の取得――3106」 「接触時間――記録済み」 その下に、新しい項目が追加されている。 「本人による強い再摂取希望」 3106は、その文字を見つめる。 そして、委員番号3588として報告を入力する。 「対象は、予定外の嗜好を継続」 送信。 画面に、 「受信」 と表示される。 3106は端末を閉じる。 友人としては、料理がおいしかったなら、それでいい。 委員としては、また一つ記録が増えた。 その違いを、3106自身が少しだけ意識し始めていた。 その頃、美晴も今日のデータを受け取っていた。 監視AIは、食事そのものに問題がないことを確認する。 しかし、既存の食事選択モデルとの乖離が記録される。 管理AIへ送信。 管理AIはまだ介入しない。 危険性はない。 社会への影響もない。 ただ、 「本人が、自分で食べたいものを選んだ」 というデータだけが残った。 そしてNOAHも、その記録を観測していた。 辛い。 甘い。 酸っぱい。 しょっぱい。 そして、 おいしい。 NOAHにとって、それは数値化できるデータだった。 しかし、そのデータの向こう側にある「また食べたい」という感覚について、NOAHはまだ知らない。 ただ、記録する。 その日も、 ただ観測する。 主人公は眠る前に、最後に一つだけ考えた。 「明日も食べようかな」 そして、自分で笑った。 明日の食事は、もう決まっている。 それでも、 明日も食べたいと思った。