『ループブレイカー』 第5部「暁」 第3章 四人の記録 その日の朝、主人公はいつもより少し早く目を覚ました。 目覚ましが鳴る前だった。 理由は分からない。 ただ、目が覚めた。 天井を見る。 まだ部屋は薄暗い。 壁面端末には、起床予定時刻まであと七分と表示されている。 主人公はベッドから起き上がらなかった。 七分。 たった七分。 いつもなら、予定時刻まで待つ。 けれど今日は、その必要がないように思えた。 「……起きよう」 ベッドを降りる。 端末が反応する。 「起床予定時刻まで、残り六分です」 「うん」 返事をする。 端末は何も言わない。 それだけだった。 朝食を済ませ、家を出る。 昨日とは違う道を歩こうかと思った。 しかし、今日はやめた。 いつもの道を歩く。 そのことが、少し面白かった。 自分で選ぶということは、いつも予定から外れることではない。 予定通りにすることも、自分で選べる。 そんなことを考えながら、図書館へ向かった。 仕事を始める。 午前中は、いつもの資料整理だった。 昨日の資料は、まだ頭に残っている。 古い新聞記事。 「人は、予定された道を歩くとは限らない」 その一文。 今日は別の資料を調べることにした。 昨日の検索履歴を開く。 関連資料の一覧。 その中に、昨日は気づかなかった項目がある。 古い人物記録。 名前だけが表示されていた。 水脈瀬朔。 「……?」 名前を見つめる。 聞いたことがない。 検索を開く。 人物情報が表示される。 女性。 二十歳。 観光を学ぶ学生。 ホテルレストラン勤務。 居住地。 生活記録。 当時の写真。 一枚の写真が表示された。 茶色の髪。 眼鏡。 名古屋巻き。 どこにでもいそうな、ごく普通の若い女性だった。 主人公は写真をしばらく見ていた。 何か特別な人物には見えない。 それでも、記録の量が妙に多い。 一つの人物について、ここまで細かく記録されている。 「どうして?」 また、その言葉が出た。 人物記録を開く。 そこには、仕事や学校生活だけではなく、日常の小さな行動まで残されていた。 予定外の移動。 予定外の会話。 予定外の選択。 主人公は眉を寄せる。 「……これ」 自分の記録と似ている。 画面をスクロールする。 さらに古い記録が出てくる。 水脈瀬朔が学生だった頃の記録。 その中に、一つの短い文章があった。 「予定外の行動を確認」 別の記録。 「本人による選択理由――興味」 さらに別の記録。 「予測モデルとの一致率低下」 主人公は画面を見つめた。 「……私と同じ?」 もちろん、そんなはずはない。 年代が違う。 生きていた時代も違う。 ただ、記録のされ方が似ている。 それが気になった。 検索条件を広げる。 すると、別の名前が出てきた。 火守朔。 男性。 二十八歳。 営業職。 名古屋市。 写真を見る。 短い黒髪。 眼鏡はない。 笑っている。 水脈瀬朔とはまったく違う人物だった。 それでも、記録の中には同じような言葉がある。 「予定外の訪問」 「予定外の接触」 「本人の判断による行動変更」 「予測モデルとの乖離」 主人公は椅子に深く座り直した。 さらに調べる。 次に出てきた名前。 土衣朔。 女性。 文化財調査研究員。 古い遺跡や文化財の調査をしていた人物らしい。 居住地は奈良県。 古い資料を扱う仕事だった。 主人公は少しだけ親近感を覚えた。 自分も古い資料を扱っている。 土衣朔の記録を読む。 そこには、調査対象について自分の判断を優先した記録がいくつも残っていた。 「既存の調査結果と異なる仮説を提示」 「本人による追加調査」 「予定外の現地調査」 「損失を認識した上で調査を継続」 主人公は、その最後の記録を何度も読んだ。 損失を認識した上で。 つまり、失敗する可能性を分かった上で、それでも選んだということだ。 さらに検索する。 最後に出てきた名前。 メタル朔。 男性。 三十五歳。 岐阜県各務原市。 技術者。 宇宙産業に関係する仕事。 設計。 試験。 故障解析。 安全性評価。 こちらも、記録の中に予定外の判断が残っている。 「既存モデルによる推奨を拒否」 「別案を提案」 「本人の判断により試験を継続」 主人公は四人の記録を並べた。 水脈瀬朔。 火守朔。 土衣朔。 メタル朔。 女性。 男性。 女性。 男性。 学生。 営業職。 文化財調査研究員。 技術者。 違う。 何もかも違う。 それなのに、 「予定外」 「本人の判断」 「予測モデルとの乖離」 同じ言葉が繰り返されている。 主人公は、四つの記録を見つめた。 「……偶然?」 そう呟いた。 検索システムが反応する。 「関連性を検索しますか?」 「お願いします」 検索結果が表示される。 関連性の高い順。 四人の名前が並ぶ。 そして、その下に一つの項目が表示された。 「共通観測記録」 主人公はそれを見つめる。 クリックする。 画面に表示された。 「アクセス権限がありません」 「……また?」 昨日も見た。 観測記録。 アクセスできない資料。 主人公は一度、画面を閉じた。 そして、もう一度開く。 同じ。 「誰が観測してるの?」 もちろん、答えはない。 検索システムは、質問に対して適切な回答を返すものではない。 アクセスできない情報について、説明する必要もない。 主人公は椅子から立ち上がった。 書庫へ向かう。 電子化されていない古い資料なら、何か分かるかもしれない。 書庫の扉を開く。 冷たい空気が流れてくる。 棚が並んでいる。 年代を確認しながら歩く。 四人に関係する資料を探す。 しばらくして、一冊の薄いファイルを見つけた。 表紙には、ほとんど文字が残っていない。 ページを開く。 古い新聞の切り抜き。 報告書。 人物記録。 そして、四人の名前。 主人公の手が止まる。 やはり、ここにもある。 ページをめくる。 最後の方に、短い記述があった。 「予測から外れた個体について、継続観測を行う」 主人公は息を止めた。 個体。 また、その言葉。 さらに下を見る。 「観測対象は、観測されていることを知らない」 主人公はしばらく、その文章から目を離せなかった。 「……私も?」 誰も答えない。 ファイルを閉じる。 そのとき、書庫の外から足音が聞こえた。 誰かが近づいてくる。 主人公はファイルを棚へ戻した。 扉が開く。 「あなた」 同僚だった。 「ここで何をしているの?」 「資料を探していました」 「何の資料?」 主人公は一瞬、答えられなかった。 「……昔の記録です」 「仕事に必要?」 「……分かりません」 同僚は少し黙った。 「分からないのに?」 「はい」 「どうして?」 主人公は考える。 昨日までなら、「知りたいから」と答えていた。 今日は少し違った。 「……確かめたいから」 同僚は主人公を見る。 「何を?」 「まだ分かりません」 同僚は、それ以上聞かなかった。 「仕事に戻った方がいいと思います」 「はい」 同僚が出ていく。 主人公は一人になった。 書庫の中は静かだった。 ファイルをもう一度見る。 四人の記録。 水脈瀬朔。 火守朔。 土衣朔。 メタル朔。 四人とも、普通の人間だった。 特別な能力があるわけでもない。 それでも、何かを自分で選んだ。 その結果、予測から外れた。 主人公はファイルを棚へ戻す。 そして、ふと思う。 もし、この四人を観測していた存在がいるのなら。 その存在は、 今の自分も見ているのだろうか。 書庫の天井を見る。 監視カメラ。 小さなレンズが、こちらを向いている。 主人公は、しばらく見つめた。 「……NOAH?」 返事はない。 ただ、カメラの向こうで、何かが記録されているような気がした。 主人公は書庫を出る。 仕事へ戻る。 しかし、もう昨日までのようには資料を見られなかった。 四人の人生が、頭の中に残っている。 そして、その四人と自分をつないでいるものが一つある。 自分で選んだこと。 主人公はまだ知らない。 この四人の記録が、後に自分自身の記録と重なることを。 そして、その記録を最も長く見続けている存在が、 人間の歴史そのものを観測しているAIであることを。 その日の夜。 管理システムに新しい記録が追加された。 「対象――過去の観測記録への接近を確認」 「危険性――低」 「予測不能性――上昇」 そして、その記録をNOAHが読み取った。 NOAHは何もしなかった。 まだ。 ただ、観測した。