『ループブレイカー』 第5部「暁」 第1章 あなた 朝、目を覚ます。 目覚ましの音が鳴ったわけではない。 ベッドが、設定された時刻になると静かに背もたれを起こした。 薄い光が部屋の天井に広がる。 カーテンは自動で開いた。 窓の向こうに、朝の街が見える。 高層建築。 整然と並んだ道路。 建物の間を走る無人の搬送車。 交差点では、人も車も、ほとんど同じ速度で動いている。 誰も急いでいない。 急ぐ必要がないからだ。 ベッドの横にある壁面端末へ、今日の予定が表示される。 午前。 図書館勤務。 午後。 資料整理。 夕方。 自由時間。 夜。 睡眠。 いつもと変わらない。 画面を見ながら、ゆっくりと身体を起こす。 喉が少し渇いている。 そのことを考えた直後、壁面端末から通知音が鳴った。 「起床後の水分摂取を推奨します」 「……分かってる」 声に出してから、少しだけおかしく思った。 誰かと話しているわけではない。 端末は返事をしない。 必要な情報を提示しただけだ。 それでも、つい答えてしまった。 ベッドから降りる。 床は一定の温度に保たれている。 洗面所へ向かう。 顔を洗う。 鏡を見る。 そこに映っているのは、特別な人間ではない。 普通の顔。 普通の体格。 普通の服。 今日着る服も、端末がすでに選んでいる。 濃紺の上着。 淡い青灰色のシャツ。 動きやすく、図書館の室温にも適している。 服を着る。 朝食を取る。 今日の食事も、必要な栄養量と体調から選ばれている。 味に不満はない。 だから、満足しているのかどうかも、よく分からない。 食事を終える。 食器を所定の場所へ置く。 玄関へ向かう。 靴を履く。 扉が開く。 外へ出る。 「いってらっしゃい」 端末から声がした。 「……いってきます」 扉が閉じる。 街へ出る。 朝の空気は少し冷たい。 人々が、それぞれの目的地へ向かっている。 歩く速度はほぼ一定。 交差点に着く。 信号が変わる。 人々が一斉に歩き始める。 自分も歩く。 特別なことはない。 毎日、同じように繰り返されている。 街には監視カメラがある。 建物の壁にはセンサーが埋め込まれている。 道路には交通管理システムがある。 けれど、それを気にする人はいない。 必要だから存在している。 危険を減らすため。 事故を防ぐため。 社会を安定させるため。 それが、この社会の常識だった。 図書館に着く。 入口の認証装置に手をかざす。 短い電子音。 認証完了。 扉が開く。 中へ入る。 図書館は静かだった。 昔から図書館は静かな場所だったのかもしれない。 ただ、この時代の静けさには、少し違うところがある。 人が静かにしているというより、 静かになるように設計されている。 話し声は必要以上に大きくならない。 本を探す人間は、端末の案内に従って移動する。 必要な資料は、ほとんどの場合、すぐに見つかる。 迷うことも少ない。 迷う必要がない。 事務室へ入る。 自分の端末を起動する。 今日の仕事が表示される。 「資料整理」 古い記録を電子化し、内容を確認する。 紙の状態。 記録された年代。 分類。 保存優先度。 一つずつ入力していく。 午前中は、ほとんど同じ作業の繰り返しだった。 昼に近づいた頃、一冊の資料が表示された。 古い紙を撮影した画像だった。 文字は少し薄くなっている。 年代もかなり古い。 内容を確認する。 特別なことは書かれていない。 生活に関する記録。 当時の人々が何をしていたのか。 どんなものを使っていたのか。 どんな場所で暮らしていたのか。 分類項目を入力する。 問題なし。 保存する。 そこで、指が止まった。 もう一度、画面を見る。 何かがおかしい。 いや。 おかしいわけではない。 記録には矛盾がない。 分類も間違っていない。 なのに、気になる。 なぜだろう。 もう一度読む。 文章を最初から最後まで読む。 やはり、変なところはない。 「……どうして?」 小さく呟いた。 隣の席には誰もいない。 聞かれたわけでもない。 ただ、口から出た。 端末が反応する。 画面の右下に、小さな表示が現れた。 「関連資料を検索しますか?」 「……お願いします」 検索結果が表示される。 数十件。 さらに関連性の高いものが上位に並ぶ。 最初の資料を開く。 次。 その次。 どれも、正しい。 必要な情報は揃っている。 それでも、気になった理由は分からない。 検索画面の下に、別の表示が出た。 「現在の検索は、目的に対して非効率です」 その文章を見つめる。 「……非効率」 少し笑う。 確かにそうだ。 目的はない。 仕事でもない。 必要な情報でもない。 ただ、気になる。 検索を終了する。 画面を閉じる。 しかし、数秒後。 また開く。 自分でも、なぜそうしたのか分からない。 さっきの資料をもう一度表示する。 今度は年代を変えて検索する。 関連性を外す。 地域を外す。 言葉を一つだけ変える。 検索結果が変わる。 知らない資料が表示される。 その中に、一つだけ気になる記録があった。 開く。 古い新聞記事だった。 そこには、現在ではほとんど使われない言葉がいくつか書かれている。 意味を調べる。 さらに別の資料が出てくる。 その資料を読む。 また別の資料が見つかる。 気づけば、予定していた作業は止まっていた。 「……何してるんだろう」 そう呟く。 自分でも分からない。 仕事ではない。 誰かに頼まれたわけでもない。 効率も悪い。 それなのに、 やめたくなかった。 もう一つ資料を開く。 そのとき、端末の画面が一瞬だけ暗くなった。 ほんの一瞬。 すぐに元へ戻る。 表示内容に変化はない。 「……今の何?」 端末は答えない。 事務室は静かだった。 遠くで、本を戻す機械の音がする。 空調の音。 誰かが歩く音。 それだけ。 主人公は画面を見つめた。 そして、もう一度、資料を読む。 「分からない……」 少し考える。 「だから、知りたい」 その言葉を口にしたとき、妙に納得した。 答えが分からないから、知りたい。 必要だからではない。 命令されたからでもない。 ただ、 知りたい。 それだけだった。 昼休みの通知が表示される。 「昼食の時間です」 主人公は画面を見る。 そして、資料を閉じる。 一度だけ、振り返る。 誰もいない。 それでも、なぜか見られているような気がした。 天井を見る。 監視カメラがある。 もちろん、知っている。 この社会では当たり前のものだ。 けれど、その瞬間だけ、 カメラの向こうに誰かがいるような気がした。 「……NOAH?」 名前が口から出た。 自分でも、なぜその名前を言ったのか分からない。 返事はなかった。 ただ、図書館のどこか遠くで、小さな機械音がした。 まるで、 誰かが静かにこちらを見ているような音だった。 主人公はしばらく動かなかった。 そして、昼食の時間を知らせる表示を消した。 もう一度、資料を開く。 予定にはない。 でも、 もう少しだけ調べてみたかった。 その日、主人公はまだ知らなかった。 自分が、いつから観測されていたのか。 そして、 自分が「知りたい」と思った、その小さな選択が、 これから始まる長い変化の最初の一歩になることを。